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第9章 吸血鬼って生き物は、多分…
 
 「僕の命は、あと十日…。その間にカリフォルニアに行けないなら、もう一つ、ずっとやってみたかったことがあるから、そっちをしてみるよ。つきあってくれる?」
 俺の家を出た後、俺達は町の外れの河原に座っていた。月の光でちらちら光る川面を眺めながら、俺は頷いた。
「ありがとう、トビー。じゃあ、今夜はずっと僕と一緒にいてくれる?」
 奴は俺を見上げて訊ねた。
「いつもそうしてるじゃないか?」
 お前が病院に行く晩以外は。俺がきょとんと尋ね返すと、奴は微笑んだ。
「このままここで、夜が明けるまで一緒にいてくれるかって頼んでるんだ」
「ここで、夜明けを…?」
 奴は頷いた。
「うん。でも、場所はちょっと変えるかも。河原もいいけど、朝日を見るなら、やっぱり丘の上のほうがよくない? 僕、一度、朝日を見てみたかったんだ。夕焼けもすごそうだけど、まずは朝日を見てみないとね。じゃないと、きっと夕陽のよさも分からないと思うんだ」
 奴は、遠足の前の晩みたいに、わくわくと言った。夕陽のよさがわかる日なんか、永遠に来ないと分かってるくせに…俺が、何か答えようとして、顎をがくがく震わせていると、奴は俺の肩にそっと手を置いた。
「朝日と夕日、どっちも見れるといいんだけどね。欲しいものはみんな、手に入れられたら、どんなにいいだろう? でも、どちらか片方しか選べないことが、人生には沢山あるんだ。吸血鬼の人生には、特にね」
 奴は俺の目を覗きこんだ。
「分かってくれる、トビー? 人生には、何かを選ばなきゃいけないときがあるんだ。君も、きっといつか分かってくれると思う…ごめんね、君より先に死んで。吸血鬼の存在意義なんて、愛する人より長く生きて、彼らの死を看取ってあげられることくらいしかないのに。なのに、僕は…」
 マイクはすまなそうに首をかしげた。
「生きた状態で、政府に捕まるわけには絶対、いかないんだ。あんな薬を政府に作らせるわけにはいかないんだ。それが、僕から君への、唯一の贈り物なんだ。だから、分かってくれるよね?」
 俺は震えながら、頷いた。いや、本当は頷いているかのように震えてしまっただけだったが、マイクの顔は、カリフォルニアの太陽のように輝いた。

 そして、マイクは朝の最初の光とともに、消えた。地面に灰が残ったけれど、指にすくい取ろうとすると、それは朝露のように地面に吸い込まれて消えてしまった。俺の指には、茶色い土がついただけだった。それは、普通の灰ではなかった。そのとき、俺は初めて気がついた。マイクの体は、ただの物質でできていたのではなかったのだと。それ以上の何かでできていたのだと。マイクの体の一部を、何かの記念品のように取っておきたいなんて考えること自体が、マイクへの冒とくのような気がした。
 だから俺は、マイクの灰が少しでも残っていないかと地面をまさぐったりはせずに、マイクと一緒にみつめた太陽の下で立ち尽くしていた。
「人生って、なんて美しいんだろう!」
 それが、日の出を見たマイクの感想で、マイクの最後の言葉だった。
 俺は、その言葉を何度も何度もかみしめながら、夕陽に背を向け、丘を降りた。来たときとは違って、一人ぼっちで。

 マイクはすでに、ママにあてた遺書を残していた。ママは、マイクに対しても、俺に対しても、ものすごく怒ったけれど、最後には許してくれた。それには年単位の時間がかかったけれど。でも、マイクの葬式が終わるとすぐに、俺もマイクみたいにホームスクーリングで高校卒業の資格を取れるよう手配してくれた。そして、これからもこの家に来て、マイクの遺した教科書で勉強しなさいと言った。その頃の俺とママは、ものすごく気まずい会話しかできなかったんだけど、俺はマイクが読んだ本をどうしても全部、読んでみたかったので、マイクの部屋に通い続けた。沢山、沢山、本を読んだせいで、俺の頭も少しはよくなって、十年生から普通の学校に編入したが、普通の成績くらいは取れるようになっていた。でも、本当の友達はできなかった。あの丘を降りてから、俺はずっと一人ぼっちだった。マイクと会うまでだって、ずっと一人ぼっちだったんだけど、まるで生まれて初めて、そうなったような気がした。
 礼拝に出ていたわけではないけれど、牧師とはたまに会っていた。教会のドアにはまだトイレの飾りみたいな造花のリースが貼りつけてあった。牧師室の机の引き出しには、俺とマイクが肛門科の診察予約の日を書きこんだカレンダーがまだ入っていた。俺が行くと、奴は必ずそれを机から取り出して、パラパラとめくった。それを見る度、俺は目の奥が熱くなってうつむいた。肛門科の予約が書きこんである日は、俺とマイクがカリフォルニアに行くはずの日だった。
「でも、マイクは、カリフォルニアより、いい場所に行ったんだよ」
 牧師の言葉に、俺はいつも黙って頷いた。
「学校は楽しいかい、トビー?」
 そして、牧師はいつもこう聞いた。
「楽しいとは言えないな」
 そして、俺はいつもこう答えた。でも、俺は学校に通い続けた。何のために、そうしているのか自分でもよく分からなかったが、俺は多分、経験したかったんだと思う。学校を。学校がつまらないということを。そんなことを全部、経験したかったんだと思う。マイクがいない世界、しばしば涙の中でおかしな形に歪む世界。そんな世界を経験したかったんだと思う。マイクは、そういうことを何も経験できなかったけれど、俺には経験することくらいしか、できることがなかった。人間は、多分、経験する生き物なんだろう。そして、吸血鬼は、多分…。
 吸血鬼が、人類に大きな贈り物を遺してくれたことを、大多数の人は知らない。
 三歳児の格好をした小さな吸血鬼が、命を賭けて、俺達のために死と老いを経験する自由を遺してくれたことを、大多数の人は知らない。俺と、マイクの両親と、牧師以外にはおそらく誰も。
 高校最後の年に、一度だけ、クラスメートの家で開かれたパーティーに招かれた。楽しめないことは分かっていたけれど、楽しめないという経験を経験するために、俺は出かけた。家は人と、音楽と、煙草の煙でいっぱいだった。頭が割れそうだなんて言って、繊細ぶるつもりはないけれど、俺は人でごった返すリビングルームから出て、廊下をぶらぶらした。客用寝室らしき部屋の戸が開いていたので、何となく中に首をつっこむと、俺は雷に打たれたように立ち尽くした。
 入ってすぐのところの壁に、電灯のスイッチが夜光塗料で青白く光っているのが見えたのだ。
 マイクが死を選んだ直後、怒り狂ったママが家中の夜光塗料をこすり落としてしまったので、その懐かしい青白い光を見るのは、ずいぶん久しぶりだった。
 マイクからのサインだ。
 俺はそう確信した。人生の暗闇の中にいる俺に、暗闇の中でしか見えない光を、マイクが届けてくれたんだ。目ににじむ涙の中で、また世界が歪んだ。
「何してるんだ?」
 誰かが通りすがりに俺の肩を叩いた。振り返ったときに、そいつはもういなかったが、俺は泣き笑いを浮かべていた。
 俺の目の中で歪む世界は、俺だけにしか見えない、たった一つの世界だった。そして、それは青白い光に照らし出された、とても美しい世界だった。人生はなんて美しいんだろう。リビングから漂ってくる副硫煙と、洗面所から漂ってくる誰かのゲロの臭いに挟み撃ちされながら、俺は生まれて初めて、そう思った。
 吸血鬼とは、多分、守護天使のような生き物だ。俺は、そう思った。
<おわり>


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