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一.新患、いつでも受付中
「ねえ、ザビエラ。これを持ち上げて、ちょっとずらしてくれない?・・・聞こえないの、ザビエラ? こっちに来て手を貸してよ。ほんの少しずらすだけでいいんだ・・・ねえ、聞こえないの? ちょっと力を貸してくれって頼んでるだけじゃないか。ひどいよ、無視したりして。僕は君の雇用主として命令する! 今すぐ、ここに来て、このキャビネットを右に一インチずらすんだ、ザビエル・ロドリゲス! もう一度だけ言う、ザビエル・ロ・・・」
「あたしの名前はザビエルじゃなくてザビエラよ、先生! 男みたいな名前で呼ばないでって、何べん言ったら分かるの?!」
 読みかけのヴォーグの最新号を受付カウンターに伏せて立ちあがると、あたしは診察室を覗きこんで叫んだ。
「だって、法律上の名前で呼ばないと返事しないじゃないか!・・・やっとこっちを向いてくれたね、ザビエラ?」
 と、壁際にしゃがみこんで、あたしをにらみつけていた先生が、チュンと尖らせていた唇をゆるめて、にっこりほほ笑んだ。もう、ずるいんだから、先生ってば!・・・ウンコ座りしながら、そんなにかわいく笑いかけられたら、どんな頼みだって聞かないわけにいかないじゃないの。たとえ、ビッグ・ベンをちょっと左に一フィートずらしてくれって言われたとしても。
 あたしは先生に言われた通り、診察椅子の脇に置かれた殺菌灯付きキャビネットを持ち上げると、右に少しずらした。
「ありがとう、ザビエラ!」
「どういたしまして。でも、乙女に力仕事を頼むなんて、先生、あなたって貴族だけど英国紳士とは言えないわね」
 と、先生の唇が再び、雀のくちばしみたいに小さく尖った。
「しかたないじゃないか、君のほうが力があるんだから。僕がそれを気にしてるって知ってて、そんなことを言うんだから、君のほうが紳士じゃないよ、ザビエル!」
「だから、あたしはザビエルじゃなくてザビエラ! 乙女なんだもの、紳士じゃなくて結構よ!」
 あたしがハイヒールのかかとをカチンと床に打ちつけて凄んで見せると、先生はにやりと笑って壁のほうを向いた。そして、キャビネットをどかすことで作業しやすくなった壁の小さな穴に、虫歯に詰めるレジンを充填すると、ライトをあてて硬化させ、丁寧に研磨機をかけた。
「あー、すっきりしたぁ! 見てよ、ザビエラ。この壁のどこに穴があったか、もう全然、分かんないだろ?」
「はいはい、坊ちゃま・・・」
 そんな穴、もともと、どこにあったのか分からないけどね。
「他にもないかなぁ!」
 先生はしゃがみこんだまま壁に張りつくと、うきうき口笛なんか吹きながら、他にも充填すべき穴がないか探し始めた。そうそう見つかるわけないでしょ。そうやって毎日、くまなく探してるんだから・・・
 あたしは受付カウンターに戻ってヴォーグを取り上げると、ガラスのドア越しに外を眺めた。今日もいっこうに来る気配のない患者さんの姿を探して。ま、いいんだけどね。誰も来なくても・・・。
 だって、たとえ、今月ひとりも患者さんが来なかったとしても、あたしのお給料は先生のパパのジャーンヴィル伯爵が莫大な不労所得の中から支払ってくださるから。坊ちゃまは「君の雇用主として命令する」なんて粋がってるけど、あたしの真のご主人様は、パパである伯爵様。そもそも、この歯科医院自体、パパが貴族の道楽の一つとして、息子のために建ててやった別荘のようなものだから、利益なんか上がらなくても大丈夫なわけ。開業して一年半、先生は一応、パパの援助に頼らずに、自分の腕一本で自立することを目指してはいるけど、あたしにとっては、どっちでも同じこと。むしろ、このまま閑古鳥が鳴き続けてくれたほうが、あたしと先生の水入らずでゆっくりできる・・・
「わーい、オカマだ、オカマだー! オカマが外をのぞいてるぅー!」
 と、ドアの外でガキが囃し立てていた。
「失敬なガキね! ちょっとこっちに来なさいよ、その生意気な口を危険な水銀化合物で埋め立ててやるから!」
 ドアから顔を出して怒鳴りつけてやると、奴らはキャーッと歓声を上げて散った。最近のガキどもって、まったくしつけがなってないんだから! 
 あたしはぷりぷりと診察室に戻ったが、先生は這いつくばって、床とキャビネットのすき間にミラーをつっこみ、穴がないか探し続けていた。あたしとしては、先生と二人きりでゆっくりできるのは嬉しいけれど、やっぱりもうちょっと患者さんが来てくれたほうが、先生の精神衛生にはいいかもしれない・・・。
「あな、あな、あな、あな、あなたのあだなは、あなだらけー」
 先生が変な歌を歌いながら、鼻を床にくっつけているすきに、あたしはピンセットで壁を穿って、こっそりC2くらいの穴を開けておいた。これで、先生も、もうしばらくは楽しめるはず。まったく世話が焼けるんだから。でも、そういうところも先生の魅力の一つなのよね。
 あたしは、白衣に包まれた先生の頼りない背中を見つめながら、うっとりとため息をもらした。
 大金持ちの大貴族の一人息子でありながら歯科医で、若くて、かわいくて、しかも、ちょっとおつむが足りないという究極のお坊ちゃま。それが麗しのエドワード先生。あたしの愛しのダーリン。先生はそのことを認めようとしないけど・・・
 でも、あたしは満ち足りた気持ちでスツールに腰掛けると、やりかけの繕いものを仕上げてしまうことにした。外は木枯らしが吹いているけど、診察室はいつでも暖かい。だって、あたしの膝の上には愛する人の予備の白衣が広げられているから。あたしは、うがい用の水を紙コップですすって、ほっと一息ついてから、お裁縫セットの蓋を開けた。
「ザビエラ! 僕の白衣を改造するのはやめてくれって、何度言ったら分かるんだ!」
 と、這いつくばっていたはずの先生が、いつの間にかあたしの前に立ちはだかっていた。
「改造?! ほころんだところを、ちょっとかがってるだけじゃないの?」
「嘘つけ! どうせ、また僕の白衣の身頃を詰める気なんだろうっ?」
 先生はほっぺたをピンクに染めて、わめきたてた。うふ。怒った顔もかわいいんだから。
「きゃあっ! ちょっと先生、何するのよう!」
 が、先生に突然、白衣を奪い取られて、あたしは悲鳴を上げた。危うく、針で指をつつくところだったじゃないの!
「これ以上、僕の白衣をぴちぴちにするのはやめてくれっ」
「白衣だってボディーコンシャスなほうがおしゃれじゃないの?!」
「乳首が透けるくらいコンシャスじゃなくってもいいだろうっ。あまりにもキツキツで、白衣の下にシャツを着ることもできないんだからね!」
「素肌に白衣、セクシーでいいじゃない。ここは暖房もちゃんと効いてるし。なぜ、あたしの前で、そんなことを恥ずかしがるの、ダーリン?」
「君はいつもそうやって、僕をおもちゃにして楽しんでるんだから! こないだなんか、僕の私服のズボンまで改造したろっ? とぼけたって無駄だよ。家に帰る途中、落とした財布を拾おうとかがみこんだら、みりっとお尻のところが裂けちゃったんだからね! しかも道のまんまん中で!」
「キャーッ、あたしもその場にいたかったぁ!」
 あたしが身をくねらせると、先生は肩をいからせ、まくしたてた。
「これは絶対に君のせいだよ! だって、体重なんか一ポンドだって増えてないのに、ズボンがきつくなるはずないだろ? プロテイン飲んで、鶏肉食べて、ダンベル持ち上げて、ジムにも通ってるのに、体重も増えなきゃ、筋肉もちっとも増えないんだから!」
「やだ、先生! 筋肉つけて、肉体改造なんか試みてるわけ?! だめだめ、先生はなまっちろくて、なよなよしたお坊ちゃま風なところが魅力なんだから。人間、ありのままが一番よ!」
 あたしがなで肩を撫でて慰めてあげると、先生は幼稚園児みたいにぶるぶる下唇を震わせながら、あたしの手を払いのけた。
「人が一番、気にしてることを指摘してくれて、どうもありがとう! ありのままが一番だって?! なら、君こそ、スカートとハイヒールを脱ぎ捨てて、ありのままの姿に戻ったらどうだいっ? そしたら就業時間中に一日三回、こっそりトイレでひげとすね毛を剃る手間が省けるだろう。それに僕も、筋肉ムキムキで怪力の歯科衛生士と毎日、自分をひき較べて自信を喪失しなくて済む。だって曲がりなりにも女の格好をした人間に毎日、六フィート三インチ+ハイヒールの高みから見下ろされて、いつも力仕事を代わってもらっていたら、男としてのプライドがズタズタになっちゃうからね。それよりは、ザビエル・ロドリゲスなんてマッチョな名前で、頬ひげじょりじょりの大男に肩車でもされて『どうだい、坊や、木の枝に引っかかった風船は取れたかい?』って言われるほうが、ずっと傷つかなくて済むよ!」
「ひどいわ、先生っ?! あたしの名前はザビエラ・ロドリゲスよ! そりゃあ、たしかにロドリゲスって名字は、ちょっとマッチョな響きがしないこともないけど、ポルトガル系移民の娘なんだからしかたないでしょ。それに、あたしの顔のうぶ毛が人よりちょっと濃いように見えるのも、ラテン系で全身の体毛が黒いせいよ。民族的なことをいちいち、あげつらうのはやめてちょうだい!」
「あげつらいだしたのは君のほうじゃないか、ザビエル? 僕の努力を肉体改造と言って馬鹿にするなら、君も僕の白衣を改造するのは金輪際、やめてくれっ」
「そんなにむきにならな・・・」
 と、先生からボディコン白衣を取り戻そうと手を伸ばすと、
「せんせーい! いるー?」
 待合室から甲高い声が響いて、近所のくそガキがおもちゃの飛行機片手にずかずか診察室に入りこんできた。
「ねー、先生、プラモデルがまた壊れちゃったから、こないだみたいにボンドでくつけて、つなぎ目をきれいに研磨してよー」
「プラモデルの修理?! いったい、ここをどこだと思ってるんだよ。僕はこれでも歯医者なんだぞ!」
 と気分を害したふりをしつつ、先生は嬉しそうにプラモデルを手に取った。もー、こんなくそガキ相手にしたところで一ペニーにもなりゃしないのに、どーでもいいことには、すぐに夢中になっちゃうんだから!
「ちょっと、坊や、うちは自費診療クリニックだから、おもちゃの治療も全額自己負担になるけど、お財布のほうはだいじょーぶかしらー?」
 あたしがとっておきの美人の歯科衛生士さん声を出して、嘘スマイルを決めると、ガキは土埃にまみれた薄汚い手を伸ばしてつかみかかってきた。やだ、ピンクのミニスカ白衣が汚れちゃうじゃないの!
「わーい、ザビエルだー! 先生が飛行機を直してくれてる間、外でジャイアントスウィングしてよー!ねー、ねー!」
 ガキはあたしの背中でフリークライミングを始めた。
「お、降りなさいってば! あたしはザビエルじゃなくて、ザビエラだって何回言ったら分かるのよ、このくそガキ。それに、か弱いレディーのあたしが、くそガキを持ち上げてグルングルン振り回すなんて、そんな荒業できるわけないでしょっ?」
「やだー、やだー、ジャイアントスウィングしてくれなきゃ、帰らないー! それに、ザビエルがほんとは男だって、町中の人に言いふらしてやるからー!」
 もう、みんな知ってる、と先生が口をはさんだが、あたしはあたしの自慢の黒髪をつかんで頂上に達しようとしているくそガキをひっつかんで肩に担ぎあげると、外に向かった。
「嫁入り前のレディがじつは男だなんて、そんな馬鹿な話、誰が信じるってのよ。あほらしい。でも、お情けで、ひとりにつき一セットだけやってあげるから、そしたら、すぐに帰りなさいよ。一セットは三回転だけだからね。わかった?」
「わーい、ザビエル、ありがとう!」
「だから、ザビエラ!」
「わー、ザビエルだ、ザビエルだ!」
 と、あたしが外に出るのを待ち構えていたように、くそガキどもがどこからともなく現れて、ジャイアントスウィングをしてもらうために列を作り始めた。さっき、あたしをオカマ呼ばわりしたくそガキまで! 乙女にこんなことをさせるなんて、なんて街なの、ここは! あ、しかも、列の最後尾には、ちゃっかり先生まで並んでいる・・・まったくもう、こんなんだから、うちのクリニックには、まともな患者が来ないわけよ。
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