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二.新患さん、いらっしゃい
「ねえ、ザビエラ・・・こっちに来てよ。ちょっとだけでいいから・・・ねえ、ザビエラ、聞こえてるんだろ? こっちに来てくれよ。ちょっと頼みがあるんだ。大したことじゃないよ。ねえザビエラ!・・・いいよ、聞こえないふりをするんなら、僕は君の雇用者として、君の本当の名前を呼んで命令する! 今すぐここに来て、君の顎を貸してくれ、ザビエル・ロドリ・・・」
「だから、あたしはザビエルじゃなくて、ザビエラ・ロドリゲス!」
「やっと、こっち向いてくれたね、ザビエラ!」
 ・・・いつものパターンだ。でも、この、脳たりんのみが持つ澄んだ瞳でほほ笑みかけられたら・・・どんな頼みだって聞かないわけにいかないじゃないの。顎だろうが、クレジットカードだろうが、なんだって貸すわよ。でも。
「今度こそ、これで終わりにしてもらいますからね。あたしの顎を貸すのは」
「分かったよ、ザビエラ! 早く、早く!」
 とか言いつつ、半月後にはまた、お願いだから貸してくれって頼まれるのは目に見えてるんだけど。でも、あたしは上機嫌の先生に促されて診察椅子に座った。まったく、何回、これをやらせれば気が済むのやら。馬鹿と子供は、一度、気にいった遊びを何度も繰り返したがるものだけど、でも、これ、ヒヤッと冷たくていやなのよねえ。しかも、たとえ顎の先とは言え、女の子に体の一部を貸せだなんて、ほんと、デリカシーがないわよ、うちの坊ちゃまは。
「はーい、じゃ、ちょっとヒヤッとするけど、タイマーが鳴るまでじっとしててねー」
 先生は甘ったるい声を出しながら、歯科用の型どり材の入ったカップをあたしの顎にすぽりとはめた。ううっ。本当にヒヤッとするんだから! しかも乙女がこんなもの顎にあてがわれちゃって、いやだわー、あたし。お肌にいいとも思えないし。あ、でも、カップが落ちないように先生が手で押さえてるから、ボディコン白衣に包まれた薄い胸板があたしの目の前に・・・顎貸しの役得だわね。今のうちに思い切り、先生の体臭を嗅いじゃおうっと。うーん、高貴な血筋をうかがわせるファンタオレンジのべたべたした甘い香り・・・さっき、マンガ読みながら飲んで、吹きこぼしてたもんね・・・まったく。
「よし、完成っ!」
 と、あたしがいろいろ楽しんでる間にタイマーが鳴って、先生もあたしの顎からカップを外してお楽しみ中だった。
「ばっちり型が取れたよ! それにしても君のケツ顎はいつ見ても見事だなあ。早速、石膏を流しこんで模型を完成させなくては!」
 勝手にして・・・。先生は早速、石膏を水で溶き始めたが、
「あ、やっぱり、石膏じゃなくて金で鋳造しちゃおっか?!」
 と、わくわく声を弾ませた。
「合金の無駄遣いはやめてください、先生っ! そんなの石膏で十分でしょ。つうか、いったい何個、あたしのケツ顎模型を作れば気が済むのよ?」
 先生は怒られながらも機嫌よく、石膏を型に流しこんだけど・・・ああ、これが患者さんの歯の型だったらね。でも、今日もまだ一人も来ない。
「飽きないんだよねー、これがなぜか。それに、こないだ作ったのは、近所の子供たちに持ってかれちゃったしさ。みんな、大好きなんだよね、あれ。いいなー、ザビエラのケツ顎。それに胸毛と上腕二頭筋も羨ましい。あー、神様、なんで、ザビエラばっかり?」
「あ、あたしに胸毛なんかあるわけないじゃないの、先生っ?! それに上腕二頭筋だって、そんなにたいしたこと・・・」
「深いVネックのセーターとか着てると、胸毛の剃り跡が青々してるのが丸見えだよ?」
「し・・・失礼しちゃうわね! 乙女の胸に胸毛なんか生えてるわけないでしょ? いつも言ってるけど、あたしは人よりちょっと、うぶ毛が濃い体質なのよ。しかも黒いから、光線の加減で青光りして見えることもあるかもしれないけど・・・」
「あー、神様、お願いですから、僕にもザビエラのケツ顎と筋肉と胸毛ともみあげと座高をください・・・」
「ちょっと、あたしにもみあげなんかないわよ! それに背丈じゃなくて、座高を伸ばしてどうするのよ。先生、頭、大丈夫? つうか、あたし、背はモデルサイズだけど、座高は人並みよ!」
 あたしは憤慨して叫んだけれど、先生が訝しげにあたしの上半身と下半身を見比べ始めたので、ちょっといい気分になった。もっと貪欲に、舐め回すように、診察椅子の上のあたしをみつめて!
 が、あたしが腕を組んで大胸筋の谷間を作り、とっておきのポーズを決めた瞬間、表のドアから誰かが待合室に入ってくる気配がした。もうっ。なんだって、こんなときに限って患者さんが?!
 あたしは診察椅子から降りると、しぶしぶ受付カウンターに向かった。患者と言っても、どうせ、おもちゃを抱えたくそガキか、壊れたティーポットの取っ手を歯科用ボンドでくつけてもらいにきたおばあちゃんに違いない。が、
「あの・・・初めてなんですけど・・・」
 カウンターの前にもじもじ立っていたのは、十八、九の女の子だった。ここで、こんなまともそうな患者さんを見るのは、こっちも初めて。
「歯の治療ですか?」
 思わずこう尋ねると、
「ええ・・・」
 向こうも、それ以外に何が?って尋ね返したそうな顔をして、あたしを見上げた。ただでさえモデルサイズなあたしだけど、カウンターを挟んで向こう側に立っているミニミニサイズの新患さんと比べると、我ながらサイズも見た目も、まさにスーパーモデル級だった。
「歯の矯正をしたいんですけど・・・」
 矯正? 
「うちの先生の専門じゃないけど、ちょっと診察させてもらえれば、矯正専門医を紹介してあげることはできるわよ」
 新患用の受付票をボードに挟んでボールペンと一緒に差し出すと、彼女は一応、それを受け取ったが、不安そうに視線を泳がせていた。ハシバミ色のきれいな瞳。明るい茶色の巻き毛がふんわり顔の周りを取り囲んでいて、こんなにおどおどしていなければ、愛嬌があってかわいらしい顔つきをしている。たっぷりとした手編み風のブルーのセーターに、細身のブラックジーンズという素っ気ないいでたちが親しみやすい雰囲気を醸し出していて、男にも女にも、オカマにも好感を持たれそうなタイプだった。
「そこのソファーに座って書いたら?」
 彼女はいったん言うことを聞いたものの、すぐに立ちあがると、空白の受付票を差し出しながらカウンター越しに訴えた。
「よそに紹介してもらうんじゃなくて、ここで矯正してもらうことはできませんか? 私、もう十九歳だから、保険を使っても八割負担だし・・・じつを言うと、あんまりお金がないんです。それに時間も。でも、このクリニックなら、どんなことでも格安でやってくれるって噂を聞きました。だから、ここで治療をして欲しいんです。お願いします!」
 まあ、たしかに、うちの先生はどんなことでもやる。壊れたおもちゃも直すし、欠け茶碗の補修もしてあげる。壁の穴を埋めるのも得意だし、ケツ顎の模型を作るのもお手の物。しかも格安どころか、一銭にもなりゃしないことばかりしている。近所の人が、ここをよろず何でも修繕屋だと勘違いしているのも無理はない。
 でも、お金も時間もないのに、矯正してくれって言われてもね。問題がどちらか一つだけなら抜け道はいろいろあるけど、両方となると難しい。それに、矯正も審美歯科も、うちの先生の専門じゃないし・・・
 だけど、カウンターの向こうからあたしを見上げるハシバミ色の瞳は・・・今にも泣き出しそうなくらい、真剣な光を帯びていて・・・
「分かったわ。引き受けるって約束はできないけど、できるだけのことはするように、あたしからも先生に頼んでみるわ」
 つったって、話を通すだけだけどね。でも、彼女の瞳は子供みたいにぱっと輝いた。やれやれ・・・めんどうくさいことにならないといいけど。
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