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三.無茶な注文
「一ヵ月以内に、この叢生歯列をアメリカ人みたいに完璧な歯並びに直したい?!」
 叢生とは、いわゆる乱杭歯のこと。先生が素っ頓狂な声をあげると、サンディー・・・久しぶりにまともな・・・多分、比較的、まともな新患さん・・・は診察椅子の上で申し訳そうに首をすくめながら頷いた。
「それは、ちょっと無理だな。美容外科にでも行けば、やっつけ仕事で何とかしてくれるとは思うけど、歯科医としてはあまりお勧めしたくな・・・」
「でも、私、美容外科なんかに行くお金、ないんです! 普通の歯医者さんに払うお金も充分あるとは言えないけど・・・」
 サンディーは先生の言葉を遮って勢いよく叫んだものの、その声は尻つぼみに小さくなり、目にはじわりと涙が浮かびあがった。
「ななななな、泣かないでよ! お金のことなら、心配しなくていいから!」
 あー、言っちゃったー! そんなこと約束していいのかなー、坊ちゃん? ま、「アマチュア精神」がうちのクリニックのモットーではあるけどね。貴族たるもの、金のために働くなどという下品なことをしてはいけないというのが先生のパパのお考えで、だから、うちの待合室の壁には「アマチュア精神」とカリグラフィー書体で書かれた額がでーんと掲げてある。アマチュア精神で診療される患者の身にもなってほしいところだけど、それがパパのお考えだし、このクリニックを建ててくれたのもパパだからしかたない。でも、先生の考えは違うはず。貴族とはいえ、二十一世紀は働かざる者食うべからずの精神で、パパから自立して独立採算を目指してるはずなのに、いまだに黒字になったことがなくて・・・今も、乱杭歯だけど、きれいな瞳と笑顔がかわいい小娘の涙に情をほだされて、無償治療の申し出をしている・・・自立への道はかなり通そうね。でも。
「でも、ひと月で何とかするのは、やっぱりちょっと無理だなあ。二年くれない? そしたら、無駄に歯を抜いたり削ったりせずに、整えられると思うんだよね」
 坊ちゃまにも、一応、歯医者としてのプロ精神はあるらしい。いや、アマチュアとしての誇り?
「でも、ひと月後に、とっても大事なオーディションがあるんです!」
 サンディーの目に再び涙がにじみ始めると、先生もおしっこをがまんしている幼稚園児みたいにそわそわし始めた。
「だ、だから、泣かないで! 前歯をめちゃめちゃに削ったり、抜いてもいいんだったら、突貫工事で何とか見た目を整えることはできなくもないから・・・」
「本当にっ?!」
 サンディーが神でも見るような目つきで身を乗り出すと、先生はごくっと唾を飲みこんでから、用心深く答えた。
「できることはできるよ。でも、あまりお勧めはしないけどね。普通に治療すれば抜かずに済む歯を、抜かなきゃならなくなるだろうし。だから・・・」
「でも、時間がないんです! 今度のオーディションには絶対、受かりたいんです。最後のチャンスなんです。だから、完璧な前歯で臨みたいんです!」
「最後のチャンス・・・? あんた、まだ十九でしょ? ミュージカルのオーディションなんか、これからいくらだって受けられるじゃないのさ」
 あたしが思わず口を挟むと、先生もここぞとばかりに力強くうなずいた。が、サンディーは目に涙をいっぱい溜めながらも、強情に言い張った。
「でも、あたしにとってはこれが最後だって決めたんです。だって、学校を出てから、ずっとオーディションを受けまくってるのに、全然合格しなくて・・・いきなり主役を狙ってるわけじゃないんですよ。脇役で受けてるのに、それでも受からないんです。だから、今度もだめだったら、才能がないって諦めて、他の道を探そうって決めたんです。ずっと夢を追い続けたいけど、うちは裕福じゃないから、早くちゃんとした仕事について家計を助けたいし。それに、今なら新しいことを始めて、一から勉強し直す時間もあるでしょう? だから、次が私のラストチャンスって決めたんです。最後だから、万全の態勢で臨みたいんです!」
「でも、テレビに出たいわけじゃないんでしょ? ミュージカルなら、前歯がちょっと捻転してても、誰も気づかないでしょうに」
 大きな舞台の上で、しかも脇役の歯並びなんかに気づく観客はいないんじゃないの? 慌てなくっても、端役からスターダムにのし上がるまでの間、じっくり普通の矯正をすればいいじゃないのさ。今は、裏側からだって治療できるし。先生もまた、うんうん頷いたけど、サンディーは納得していないみたいだった。
「この間までは、私もそう思ってました。今まで、歯並びのせいでいじめられたりしたこともないし。でも、三か月前のオーディションで、審査員に言われたんです。ひどい乱杭歯だな、どうして親は治してくれなかったのか、って。私は、親じゃなくて、大叔父夫婦に育ててもらったって答えました。そしたら、ああ、やっぱり、だから歯の矯正もしてもらえなかったんだ、ってそんな表情が審査員の顔に浮かんだんです・・・大叔父は、両親を事故で亡くした私を引きとって、できるだけのことをしてくれました! でも、上流階級ってわけでもないし、歯並びなんて大したことじゃないと思ってたから、矯正なんて夢にも思わなかっただけで・・・けして、あたしのことをほったらかしにしていたわけじゃないんです。だから・・・歯のせいで・・・歯の治療をしてもらえなかったせいで、夢を叶えられなかったなんて、誰にもそんなこと言わせたくないんです! あたしの歯がひん曲っているのは大叔父のせいじゃないし、それくらいあたしが自分で何とかして、審査員には歌と踊りだけであたしを判断してほしいんです。実力で勝負して、それで負ければ諦めもつくし!」
 サンディーの目は涙と興奮でキラキラ輝いていた。
 歯科業界には長らく・・・いえ、あくまでも嫁入り前の腰かけ仕事として、ほんの数年、身を置かせていただいてるけど、芸能関係者の治療に関わったことは一度もない。テレビや映画に出たい人がこの歯並びじゃまずいだろうけど、エキストラレベルの舞台俳優でもやっぱりそうなのかしら? よく冗談のネタにされるように、この国の人たちがみんな歯並びに無神経なわけではないけれど、アメリカ人ほど神経質ではないのはたしかだろう。大叔父さんがサンディーの歯を放置していたのも、悪気があってのことじゃないと、あたしも思う。歌や踊りが本当にうまけりゃ、歯並びの悪さだけで門前払いを食らったりはしないだろうってのは素人考えかしら。あたし、これでも、歯に関しては、素人じゃないんだけどもね。
「・・・分かったよ、サンディー。僕でよかったら、力になるよ」
 ちょちょちょちょ、ちょっと、先生っ?! 自分こそ、目に涙なんか溜めて、サンディーの演説に感動したのはいいけど、そんなに簡単に安請け合いしていいの? そりゃ、さっき先生の言った通り、突貫工事は可能よ。でも、歯の健康のためにはお勧めできないし、それに何よりさ。
「先生、あんた、矯正も審美も専門外でしょっ?」
 つうか、あんたの専門は壁の穴埋めじゃないの! 歯科医を目指すことになったのも、「お宅のお坊ちゃまは授業中に机の穴を消しゴムのカスで埋めてばかりいます」とパブリック・スクールの先生に苦情を言われたパパが、「うちのエドワードには穴埋めの才能がある!」と、超ポジティブシンキングで勘違いしたのが、そもそものきっかけじゃないのさ。机の穴埋めが得意なら、虫歯の穴埋めも得意に違いない、ってね。前向きにもほどがあるわよ。そんなエディーちゃんに、矯正なんかできるわけ?
「専門外の分野に関しても、学会誌やなんかから最新情報を仕入れるようにしてるよ」
「でも、実戦経験はないじゃないのっ?」
「やだなあ、ザビエラ。忘れたの? 去年、ストッドルマイアーさんちのくるみ割り人形の歯を矯正してあげたじゃないか?」
「あれは、ストッドルマイアーさんちのくそガキが、くるみじゃなくて鉛のペーパーウェイトを人形に噛み砕かせようとして、ぼろぼろになった歯を直してやっただけじゃないの! しかも、ひん曲った金属部品を、ペンチで力任せに伸ばしたのは先生じゃなくて、乙女のあたし!!」
「やだなあ、そのことは言わない約束じゃないか。僕、自分が非力なこと、気にしてるんだから」
「いやなのは、非力なことじゃなくて、人形の歯の矯正経験しかないことでしょっ。しかも、一番大変な作業をやっつけたのは、あ・た・し!」
「でも、診断を下したのは僕・・・」
「ペンチを使うのに、診断も処方箋もいるもんかーっ!」
「あ、あの・・・」
 と、あたしが、ついレディーのたしなみを忘れてわめきまくっていると、サンディーの遠慮がちな声に遮られた。
「あの、それで、結局、あたしの前歯は・・・」
「大丈夫、僕が力になるよ。二人で・・・いや、君と僕とザビエラの三人で力を合わせて、君の夢を叶えようよ!」
「ちょ、ちょっと、あたしも入ってるの、先生?!」
「もちろんだよ、ザビエラ! 僕たちチームじゃないか」
「ありがとうございます、先生! それにザビエラさん!」
「ちょ、ちょっと、あんたたち・・・」
「がんばろうね、サンディー!」
「はい! でも、お金っていくらぐらいかかるんでしょうか? 私、この間、ロンドンに泊まりがけでオーディションを受けに行くために、バイトを辞めたばかりだから・・・ローンで払っても大丈夫ですか?」
「いいよ、うちで持つから」
 ちょっと先生!
「で、でも、それじゃあんまり申し訳なくて・・・」
 そうよ、その通りよ! 「アマチュア精神」はパパのモットーで、「目指せ、自立」があんたのモットーでしょうが、先生!
「いいよ、気にしなくて。僕も、矯正歯科の経験を積ませてもらうことができるしさ」
「でも、それじゃあ、なんだか・・・」
 そうよ、まずいわよ、先生。おもちゃの修理はともかく、矯正までただで引き受けてたら、永遠に自立なんかできやしないわよ!
「じゃあ、その分、ここで働いてもらおうかな? ザビエラのアシスタントってことで。それでちゃらってことにすればいいんじゃない?」
「いいんですか?! ありがとうございます!」
 よくないわよ! いくらただ働きとはいえ、アシスタントのアシスタントなんて雇う必要、このクリニックのどこにあるのよ? 患者なんて、めったに来ないんだからさ! それより金よ、金! 一ペニーでもいいから、ちゃんと治療代をもらいなさいよ。それがプロ精神よ、お坊ちゃま!
「じゃ、明日から、早速、来てもらおうかなっ。楽しみだね、サンディー?」
「はい!」
 しかも、先生、なんだかやけに嬉しそうじゃないの! あ、もしかして、まさか、この乱杭歯のみなしごがタイプとか?! 冗談でしょ? やせっぽちで、ぜい肉もなけりゃ、筋肉も濃いめのうぶ毛もない、こんな貧弱な娘のどこがいいのよっ? 背も座高も低いし、顎も割れてないじゃないの! 重いキャビネットも持ち上げられないし、間違っても、あんたをジャイアントスウィングでぐるぐる回して、キャーキャー喜ばしてくれたりはしないわよ?! そんな女のどこがいいのよっ。ちょっと、ちょっと! 女はやっぱり、でかくて怪力なのが一番よ!
 が、二人はすっかり自分たちだけで盛り上がって、新しい白衣を注文する相談まで始めていた。何よ、三人で頑張るんじゃなかったのよ? あんたたちだけで、勝手に話を進めちゃってさ! 
 なんだか、いやな感じだわ。すごーく、いやな感じだわ・・・
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