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第5章 マイクの最期
 「マイクのためにやったんだね?」
 牧師は、傷だらけのドアと俺を見比べてから、あっさりと言った。
「配慮が足りなかったね。通りに面した目立つ場所に十字架を掲げたりして。交叉部分さえ隠せば、マイクはめまいを起こさないんだろう?」
 俺は黙って頷いた。そして、お茶を飲んで行けと言う牧師の誘いを断って、そのまま帰った。
次に教会の前を通った時、十字架の交叉部分は、プラスチックの造花のリースで隠されていた。なんとなくトイレのドアみたいだった。ずっと昔、いとこの家に行ったとき、トイレにあんなのが飾ってあった。乾いた小便と芳香剤の混ざった臭いが、ツンと鼻の中に甦った。
「トイレっぽいね」
 マイクも、初めて見たとき、そう言った。
「あの造花の下に、カレンダーをかけたら完璧だな」
「そうだね。僕達でプレゼントしようか。予定を書き込めるやつを。十字架を隠してくれたお礼にさ」
 俺は適当に頷いた。いつか、本当にプレゼントする羽目になるとも知らずに。
「あの牧師さんは、君が思ってるよりは、君のことを知ってると思うよ」
 ある晩、マイクは唐突に言った。
「一度、うちに来てくれたんだ。僕に会いに。そのとき、君のことを話してくれたよ。いい子がいるから、僕のところに来させるって。本当かな?って思ったけど、本当だったよ」
 奴はまっすぐに俺を見ながら言った。例によって瞬き一つせず。俺は肩をすくめた。
「だからさ、なんで牧師にそんなことが分かるんだよ。かっこつけたくて、でたらめふかしただけだろ。奴の神様トークと一緒だよ」
「いいや、違うよ」マイクは首を振った。「牧師さんは、子供の頃の君をよく覚えてるって言ってた。それに、大きくなってからも、気をつけて観察していたって。何度か、君の家も訪ねたけれど、そのたびに留守だったんだって」
テレビがうるさいから、誰か来ても気づくわけない。
「観察したからって何が分かるんだよ」
「さあ…。その人の洞察力によるね。でも、誰かがどこかで自分をこっそり見てくれているって思うのは、ちょっといい気分じゃない?」
「ストーカーじゃねえか、それじゃ」
「違うよ。守護天使みたいな感じだよ」
 俺は大天使と同じ名を持つマイクをぎろりとにらんだ。
「牧師さん以外にも、密かに君のことを思ってくれてる人がいるかもしれないよ」
 奴が、俺の親父のことをほのめかしているのは分かっていた。奴は、俺と親父を仲良くさせたがっていた。世の中、マイクのママみたいな親ばかりじゃないってことを、わざわざ奴に知らしめてやる気にはなれなかった。
「どうだかな…」
「でも、そうだって想像するだけで、いい気分じゃない?」
 俺が渋々頷くと、奴は満足げに微笑んだ。
「人生って、君が思ってるものよりも、いいものかもしれないよ?」
 奴は三歳児らしくスキップをして駆けだしたが、
「前を見ろ、馬鹿!」
 と、言ってるそばから、曲がり角で出会い頭に誰かとぶつかった。
「ごめんなさい!」
 奴は、とっておきの赤ちゃん声を出して謝った。念入りに長い睫毛を瞬きながら。三歳児のふりをしているときの奴に、腹を立てられる人間はいない。が。
「どこ見て歩いてんだよ、クソガキ?!」
 俺が駆けつける前に、マイクは、ぶつかった相手に襟首をつかんで持ち上げられた。
それは、へたれギャング団のロニーだった。その後ろでロバ顔のジェイミーがにやにや笑っていた。奴らは、俺を待ち伏せしていたに違いなかった。
「こいつ、金持ちの家のガキなんだろ? ベビーシッター中に、ガキを町に連れ出したりして、お前の雇い主は怒らないのか?」
「いいから離せよ!」
 俺がマイクのほうに手を伸ばすと、ロニーはさっと後ずさり、その前にジェイミーが立ちはだかった。
「俺達の言うことを聞かなきゃ、このお坊ちゃんは返さないぜ!」
 マイクは、あの驚異的な筋力をもってすれば、一瞬でロニーの手を振り切って逃れられるはずなのに、そうはしなかった。三歳児のふりをして瞬きをすることも忘れて、自分を持ち上げているロニーの顔をじっと見つめていた。悪意100%の人間に会ったのはこれが初めてだから、珍しいんだろう。
「クソガキを返してほしけりゃ、もう一回、教会に火をつけてきな! 今度はちゃんと灯油を撒いてさ。灯油はガソリンスタンドから盗んでこい。ついでに、レジから金を取ってくることも忘れんなよ!」
「そんなことしちゃいけないよ、トビー!」
 魔法の呪文が解けたように、マイクはロニーの顔から目を離すと俺に叫んだ。
「いいから、こっちに戻れ、マイク!」
マイクは頷いたが、その瞬間、奴らは二人がかりでマイクの両手と両足をつかむと、ハンモックのようにブンブン振り回し始めた。こんな状態でも、マイクが奴らを振り払うことができるのか、俺には分からなかった。できるとしても、すごい勢いで、アスファルトの上に投げ出されてしまうだろう。
「おい、やめろよ! やめろってば!」
「それ以上近づくと、手を離すぞ!」
 奴らにそう言われて、俺は立ち止まった。
「さあ、クソガキにけがさせたくなかったら、今すぐガソリンスタンドに行って、灯油と金をかっぱらってこい! そして、教会に油をまいて、火をつけてこいよ! そしたら、このガキを返してやらあ」
「分かったよ! 分かったから、もう振り回すのはやめてくれよ!」
「だめだよ、トビー。この人達の言うことを聞いてはいけない」
 マイクが振り回されながら叫んだが、その表情を確認することはできなかった。
「頼むから、やめてくれよ! 何でも言うことを聞くから」
「じゃ、さっさと仕事をしてきな! ガキが目を回しておだぶつする前にさ」
「分かったよ。でも、まずはマイクを振り回すのをやめてくれ」
「だめだよ、トビー! 僕はまったく平気だよ」
 マイクは、本当に平気そうに言った。でも、俺は平気じゃなかった。
「今すぐやめてくれなきゃ、ガソリンスタンドになんか行けないよ! 頼むから、マイクを離してくれよ!」
 俺の声は女の子みたいに裏返って、足は内股になっていた。この上、小首を傾げて、えへっとかわいく笑えばマイクを放してもらえるなら、俺は絶対そうしただろう。
 と、奴らがマイクを振り回す手を突然、止めた。
「今だ、マイク、逃げろ!」
 と叫びながら走り寄ると、俺はロニーにみぞおちを蹴りあげられて、地面に転がった。
「トビー!」
 マイクが、初めて平気じゃなさそうな声を上げた。奴はやっと本気を出すと、ジェイミーとロニーの手を振り払い、俺のほうに駆けだした。
「マイク!」
 が、そのとたんに奴はロニーに足を引っかけられて、見事にすっ転んだ。吸血鬼は、相当な目に遭わなきゃ怪我しないってことは、マイクから聞いて知っていたけど、俺は悲鳴を上げずにいられなかった。奴を助けようと起き上がると、また腹に蹴りを入れられて、俺は倒れこんだ。マイクも立ち上がり、また、足をひっかけられたが、つんのめりながらもなんとか俺のところまでやってきた。
「大丈夫、トビー?」
 頷こうとして半身を起こすと、今度は側頭部を蹴られた。
「やめてよ!」
 今度はマイクがお願いする番だった。
「どきな、お坊ちゃん!」
 奴らは教会に火をつけるよりも、俺をぼこぼこにして楽しむことに決めたみたいだった。
「トビーの代わりに僕を蹴ってよ!」
 マイクは小さな両腕を広げて、俺の前に立ちふさがった。ジェイミーは、へへんと笑ったが、
「どかねえと、本当にお前を蹴るぞ!」
 ロニーはチワワのような出目を血走らせて、利き足をぐっと後ろに引いた。
「早くどけ、マイク!」
 ロニーは本気だ。いかれた目つきを見れば分かる。俺はマイクを押しのけるために起き上ろうとしたが、逆にマイクに押し返された。
「僕を蹴ってよ!」
 マイクはまた叫んだ。
「ガキだからって容赦しねえぞ!」
 ロニーは後ろに引いた足を、痙攣しているように震わせながら唸った。
「おい、そんなガキ蹴るなよ…殺しちまうぞ」
 ジェイミーが青ざめながらつぶやくと、ロニーの足の震えは一瞬、とまった。俺は、マイクに押さえつけられたまま、ほっと溜息をついた。が。
「ガキも蹴れねえのかよ! 低能!」
 マイクが信じられない言葉を言い放った。その瞬間、ロニーの顔はギュッとこわばり、奴の足は力一杯、マイクに向かって振り降ろされた。俺はマイクに後ろ手に押さえつけられていて、動くこともできなかった。
「やめろ!」
 俺とジェイミーが叫ぶと同時に、マイクの体が宙に舞った。それは、本当にちっぽけな体だった。俺の目には、夜光塗料を塗ってあるかのように、暗闇から浮き上がって見えた。自分の涙がほとばしるのも、見えたような気がした。
 永遠に感じられるような時間をかけて、マイクの体は、どさっと地面に落ちた。
 ジェイミーが情けない声を漏らしたが、俺は悲鳴をあげることすらできなかった。いくら吸血鬼は怪我に強いとは言っても、本当に大丈夫なんだろうか? よほどの目に遭わなきゃ死なないって、マイクは言ってたけど、よほどってどれくらいなんだろう…俺は震えながら、奴のもとに這いよった。
「マイク! おい、大丈夫か? おい!」
 が、返事はなかった。奴は仰向けに寝かされたミルク飲み人形のように、目を閉じたきりだった。
「おい、マイク!」
 俺はマイクの体を揺さぶったが、やはり、奴は目を開けなかった。
「嘘だろ、マイク! お前は死んだりなんかしないだろ? なあ、そうだよな? 目を開けてくれよ! 頼むよ…!」
 マイクは答えなかった。
「やばいよ、ロニー…これはやばいって…」
 奴らが足を引きずるようにして後ずさる音が聞こえたが、マイクの体は、何の音も立てていなかった。
「マイク…! なあ、起きてくれよ!」
 心臓に手をあててみたたが、何も伝わってこなかった。涙がボロボロこぼれて、奴の顔が見えなくなった。
「逃げろ…!」
 後ずさる足音が、かけ足に変わった。俺は、マイクの小さな体に突っ伏して泣いた。それは、氷のように冷たかった。
「ごめんな、マイク! 俺のせいでこんなことになっちまって…! 俺があんなろくでなしどもと関わり合いにならなければ、お前をこんな目に遭わせることもなかったのに…俺、もっと大人の言うことを聞いてればよかった…ギャングになりたいなんて思わなきゃよかった…ちゃんと学校に行ってりゃよかった…そしたら…」
 俺は奴の小さな冷たい体を抱きしめながら、アスファルトを拳で叩いた。
「…でも、それじゃあ、僕らが出会うこともなかったよ」
「?」
 マイクが、俺の腕の中でパッチリ目を開けた。
「君が悪いことをいっぱいしてくれたから、僕らは出会えたんじゃないか? そんなに自分を責めるものじゃないよ」
 奴はからくり人形のように、自分の力で起き直った。
「お前…死んだふりして、俺の狼狽ぶりを楽しんでたのかよ!!!」
 俺は涙を手の甲で振り払いながら、叫んだ。
「馬鹿な! あの二人を騙すために死んだふりしただけだよ。まさか、君、あれくらいのことで僕がどうにかなるとでも思ったの?」
「普通、そう思うだろ! なんでもっと早く目を開けなかったんだよ!」
 俺は地団太を踏んでわめいた。
「ごめんよ、トビー。そんなに苦しませちゃって」奴はたいして悪びれもせず言った。「でも、これは君にとって、いい機会になるかもしれないよ。死というものについて考える機会に。君達はとても死にやすい生き物だからね。早いうちに考えておくに越したことはないよ」
 余計な御世話だ、馬鹿野郎! 三歳児の姿形をした奴に、そんなこと言われてたまるか! と怒鳴り返そうとして、俺はふいに黙りこんだ。
 俺はそのとき、はっきりと思い出したのだ。抱きしめたときのマイクの体の感触を。それは死人のように冷たくて、心臓の鼓動すら感じられなかった。息をするために、胸が上下することもなかった。普段からいつも、マイクの体はこうなのだ。吸血鬼は死なない。でも、マイクの体は死人のようだった。人間は、いつか死ぬけれど、死ぬまでは生きていられる。でも、吸血鬼は、死んでいるように生きなければならない。多分、永遠に。
 俺は初めて、マイクの瞳が底なし沼のように得体の知れない光を湛えている理由を知った。


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